西洋医学の終着点~集中治療室 No.3 家族のストーリー

日本のことをもっと知りたい!と願ったら、日出る豊葦原の国、日本の神様に導かれました。ヨーロッパのフランス語圏=ガリア=正統ケルト=西のシュメール直系の地に移住した筆者が、東の地で日本古神道に受け継がれる、宇宙や自然界の秩序に基づいた縄文文化との共通項を発見!かけがえのない地球と私たち八百万の生命とが、千代八千代に共生するための叡智を、次の世代に引き継ぐための「日本再発見ブログ」です。

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西洋医学の終着点~集中治療室 No.3 家族のストーリー

  •  投稿日:2016-03-17
  •  カテゴリ:健康
西洋医学の終着点~集中治療室 No.3 家族のストーリー

BIOレシピビオキッチンヨーロッパ湖の植物

これまでの6年間にも2度
ブリュッセル大病院とホームドクターに
無理やり連れていったことがあります。

1度目は実はホームドクターが処方した
薬の副作用による薬物中毒でひどく肝臓を患い、
この時は病院の不手際はあっても命拾いをして、

2度目はきれいに2週間に1度の頻度でやってくる
躁鬱の症状の続きで、

言動がおかしかったリ
VIP扱いを求める態度が度を超えたので
ホームドクターに連れて行きました。

この時、ホームドクターが精神科を紹介しようとしたため
本人が激怒して、これまでになく大喧嘩になりましたが
私達も歩き出したばかりで手がかかる幼い娘を抱え

当時は、それまでと同じように
義父の甘えを受け入れるのも、限界でした。

「自分を追い出して、自分の家を取ろうとしてるんだろう!
分かっているんだ!」と吐き捨てられましたが
私達には、早世した義母から受け継いだ家があります。

要は被害妄想なのですが
行き場のない
怒りや不安の感情が肥大し
自分自身をコントロールできなくなっていました。

私の思い込みかもしれませんが
このコントロールできない
感情というモンスターこそ
病気の正体であると認識しています。


身体の症状とは別のところで
患者の感情が精神を蝕み
本人が苦しむ姿を
数年間にわたって目の当たりにしました。

でもこの喧嘩で
義父との距離を取り直したことを機に

それまで4年2か月続いていた
2週間に1度現れていた躁鬱の症状が
ぴたっと収まりました。

感情をコントロールすることは
容易ではないようでしたが
本人が努力していることが
私達にも見て取れました。

本人からしてみたら
「精神病患者にされてしまうと、運転免許をはく奪される」
ことが一番の恐怖だったようですが(笑)、

行き場のないフラストレーションを
家族へあたるのも甘えであって
元々自分でコントロールしようとすれば
できたのです。

そうでなければ、家族も毎日の生活がもちません。

そしてその後の1年10カ月は
娘の良きおじいちゃん(パピー)として
本当に徹してくれ、
娘のために生きてくれました。


娘のために庭の畑を耕し
娘の求めに応じて
一緒に手をつないで草刈りをし

かわいいすべり台をプレゼントしてくれたのも
娘のおやつにフルーツゼリーを
隠して常備してくれたのも
おじいちゃん(パピー)です。

大人同士ではどんなことがあっても
おじいちゃん大好きな娘が

おじいちゃんが現れれば
「パピー!」と両手を広げて歓迎し
足元に抱きつく姿に
何度私達が救われたことでしょう。

入院直前までちょうど1年間
1日4回の幼稚園への送り迎えを
毎日務め上げてくれました。


7人兄弟の末っ子で
母親から「お前なんて欲しくなかった」という言葉に傷つき
母親が他界してもなお、
彼女からの愛情を死ぬまで求め続けた義父。

ベルギー空軍で管制官までした人なのに
彼の自分の「存在」への自信の無さが
感情を素直に表に出すことをためらわさせ、

義父の周囲では
何もかもが複雑に込み入りすぎていました。

本当はできることでも
できないと思い込み
義父の身体を金縛りのように
動けなくしていました。


幼少期から母親にやりたいことを抑圧され
働かされた「リミティングブリーフ」を
本人の力では結局、最後まで
解くことができなかったのです。

その代わりに、彼は忍耐強さという武器を
誰よりも培ってきました。


「自分は一人に慣れているから」が口ぐせで
外出に誘われ、本当は喜んでついて行きたくて
着替えて準備までしているのに

ソファーに腰かけたまま
何度呼んでも出てこないことが日常茶飯事でした。

そんな彼の「存在」を素直に喜び
おじいちゃんにいつも一緒にいるよう
笑顔で愛情を求めてくる孫娘を
どんなに可愛いと思い、

何より彼自身が救われたか
想像にかたくありません。


中医学の考えでは、腎臓が弱い人は
自分の存在そのものに対しての恐怖を
持っている人だとも言われています。

自分のありのままを受け入れ
愛せないことを見直すことが
ひとつの突破口になるという
考え方です。

そして後で振り返ってみれば
この大喧嘩の時期が
ドクターの余命宣告のリミットと重なります。

私達も本人も気付かないところで
やはり心と身体のずれが生じていて
誰かに助けを求めたかったに違いないと
今になって痛感しています。

当時、自分たちに余裕がなかったとはいえ
彼を甘えさせることを拒絶したことには
変わりません。

義父に我慢に我慢を重ねさせ
本当の気持ちを吐露するのを
ためらわせたかもしれません。


私達もそれ以降、
強くドクターに行くよう勧めることも
ある意味、タブーのように
できなくなってしまいました。

躁鬱が収まってからの4人家族が
本当に幸せだったかったからです。

でも大喧嘩以降
私達は一緒に夕食を取ることもやめ
以降はかたくなに
義父も自分で夕食を作り続けました。

私達の家から食卓テーブルも
無くなりました。
夫にとってはそれくらい
インパクトのある親孝行の”失敗体験”でした。

だから最後のクリスマスをきっかけに
一緒に夕食を食べるようになるまでの
1年8カ月の間、

義父はほとんどすべて自力で生活しました。

料理が好きで自分流にこだわりのある人だったので
不機嫌な顔で窓の外に顔をそむけながらの食事より
一人でも自分で料理して
自分の好きな物を食べて

自力で生活できていた間は
それはそれで
良かったのではないかと思います。

でも、義父の体力がこんなにも
あっという間に落ちているという事実に
私達は少し気付くのが遅れました。

義父は義父で私達に心配をかけないように
気丈にふるまって隠していたのでしょうが

私がそれに気づいたのが10月末。

義父と一緒にモンスへ行ったとき、
身体が震え食事もままならない姿に
衝撃を受けました。

この頃、缶の食事が増えてきていることに気付き
一緒に食事するのを再開したいと思いましたが
私達の家がまだ準備できておらず
食卓テーブルが2階に上がったままでした。

私達自身もまだ
3人で一緒に食事できていなかったのです。

やっと全員分の椅子が揃い
再び家族4人が久々に家で揃って
食事することができたのが、
つい3か月前のクリスマスです。

その時のことを記したのがこちらの記事です。

だからそれからは毎日、
年末年始を理由に毎日義父を誘い
はじめて義父も素直に応じる形で
自宅での最後の1か月間を過ごしました。

そしてまさか、たった1か月で
家族4人での幸せな食卓が
終わることになるとは
私自身も思っていませんでした。

私の祖父が「家に帰りたい」と言って
病院で亡くなったので
最後はどんなことがあっても
自宅で看取るつもりだったからです。

でも実際には、一度入院し
病院のシステムに入ってしまうと
状態が悪かったこともあって

最初からモニターが備え付けられ
常に輸血と抗がん剤と抗生物質の点滴につながれ
6度の度重なる手術とその後の経過見で

とてもその管を外して
連れて帰ることは
私も夫もできませんでした。

管を外せば終わりであることが
容易に想像できたからです。


私は結局、
義父の甘えを受け入れず見守るという
「タフラブ」の形で最後まで接したため

私自身、こんなに義父のことが好きで
愛着を持っていたことも

私が実はこんなに彼の存在を受け入れていて
これほど優しい人であったことも

お互い最後の1週間まで
知らなかったと思います。


フレンチ風の毎回の挨拶のキスもしないし
「お義父さん♡」なんて
可愛いことは
間違っても一切言わない嫁です。

それでも集中治療室で闘病する姿に
「Je t'aime.」と声をかけると
はっきりと目を見開いて私の目を見て
「Moi aussi.」(僕もだよ)と応えてくれました。

私はそれに「Oui, Je sais,Je sais.」(もちろん知っていますとも♪)と
笑顔で応えました。

お互い、今ちゃんと言わなければ後悔することを
はっきり分かっていたと思います。

義父の扱いは簡単ではないです。
根っからのヨーロッパ(フランス)人です。
日々のパワーゲームでは
私だって色んな意地悪もされました。

でも、その償いも
「もう良いよ」と声をかけたいくらい
生きているうちに十分すぎるほど
最後に清算してくれたと思います。


どんな義父でも、言葉が通じなくても
やっぱりこんな形で
大事な家族の一員を失いたくはないものです。


病気だから仕方ないことと頭で分かってはいても
少ない言葉でお互いに接した時、

悲しくて勝手にぽろぽろ涙が流れてきてしまうのは
動物的本能で、お別れの時が近づいていることを
感じていたからだと思います。

それよりも、
毎週金曜日に一緒に買い物に出かけたことや
時々マレッツの大聖堂へ出かけて
一緒にベルギーチーズのサンドイッチを食べたこと

そんな本当に何気ない小さな日々が
どんなにかけがえなく
楽しかったか。

懐かしすぎるほどに
今、輝いて思い出せます。


つづく


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